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2024年 02月 25日
第176回 うつむいて、GO GO! 年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。 1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。 #
by kyotakyotak
| 2024-02-25 12:28
| 本
2024年 02月 25日
第176回 うつむいて、GO GO! 年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。 1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。 #
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2024年 02月 25日
第176回 うつむいて、GO GO! 年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。 1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。 #
by kyotakyotak
| 2024-02-25 12:28
| 本
2024年 01月 23日
大晦日は毎年の決まり事のように紅白歌合戦を見て、 新しい一年は少しは良くなるようにと思っていたら、元旦、 そして羽田空港の事故が起こり、 5日は用事をすませたついでに渋谷へ向かった。 松濤美術館での『なんでもないものの変容』 心地よい疲れを感じながら渋谷駅に向かったが、 そのとき、頭の中に何十年もまえに見た『二十歳の恋』 映画のこと、うろおぼえなので調べてみた。 覚えているのは、 若かった当時、この映画を見たときは、 こんなふうに「あけましておめでとう」 そうはいっても日々は続く。 豪徳寺にある七月堂古書部に行った。1月28日(日)に拙著『 茂木さんとのセッションは二度目で、 昨年は古書ほうろうで山川直人さんとトークをさせていただいたり 七月堂古書部は、詩の本の出版社・ そのとき目に入ってきたのが『場末にて』(西尾勝彦 詩 七月堂)だった。「場末」という言葉に惹かれた。 著者のコメントには、 「いつも どこでも 場末に辿りついてしまうのが これからの あなたの 遠い 道のり」 それでもぼくは、とぼとぼと、 ともすれば自分のことがいやになり、 決して「胸を張って」とか「晴れ晴れとした」ではないけれど、 七月堂古書部では、昨年12月の池之端・古書ほうろうに続き、 山川さんの原画もぜひ見てほしい! 【タイトル】『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』 【期日】2024年1月27日(土)~2月4日(日)11: 【会場】東京豪徳寺・七月堂古書部 世田谷区豪徳寺1-2-7 (小田急線・豪徳寺駅下車徒歩5分) よろしくお願いします。 #
by kyotakyotak
| 2024-01-23 10:08
| 本
2024年 01月 07日
年が明けたので、また宣伝させていただきます。 拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』の刊行記念トークショー第二弾があります。 豪徳寺の書店「七月堂古書部」で開催していただくことになりました。今回は、音楽紙芝居でお馴染みの茂木淳子(音の台所)さんが出演してくれます。同じ世田谷で育った同世代の茂木さんとのトーク、そして茂木さんの朗読と僕のギターとのセッションがあります。 昼と夜の2回ありますので、ご都合のよろしい回に足をお運びいただければと思います。 七月堂古書部は、小田急線豪徳寺にある詩集を中心とした書店です。 予約など詳しいことはこちらをご覧ください。 https://note.com/shichigatsudo/n/nc566164d3000 開催日:2024年1月28日(日) 時間:昼:13時~14時/夜:18時30分~19時30分 (オープンは各回スタートの30分前) 場所:七月堂古書部 参加費:各回1500円(当日精算) 定員:各回10名 また昨年12月の池之端・古書ほうろうに続き、『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』の 刊行記念装画原画展を行ないます。 今回は、古書ほうろうで展示したものに加えて新作2点も追加展示してあります。 【期日】2024年1月27日(土)~2月4日(日) 11:00~19:30/1月31日(水)休み 【会場】東京豪徳寺・七月堂古書部 世田谷区豪徳寺1-2-7 (小田急線・豪徳寺駅下車徒歩5分) よろしくお願いします。
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by kyotakyotak
| 2024-01-07 20:56
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