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2024年 03月 23日
■「ときには積ん読の日々」 / 吉上恭太
------------------------------ 第77回 絵本の海におぼれながら思い出したこと ビル建て直しのため、格安で借りていた倉庫部屋を退去しなくて 本の整理はいつかはしなければならないと思っていた。めんどうな そういえば30年ほどまえ、両親があいついで亡くなったとき、知 そのときは両親の本を処分することに後ろめたさがあって、決心が 父が所有していた原書は大学が引き取ってくれることになり、 2トントラックに積み込んだ。急な坂道を上がれず、見ていてヒ 母の持っていた絵本の原書は出版社が資料として保管したいと申し 原書はなんとか行き場が決まったが、それでも何千冊かの本は残っ 半分以上が母、内田莉莎子の翻訳した絵本で、よくもまあ、こんな 『おおきなかぶ』(A・トルストイ 再話 福音館書店)のように何度も再版されている絵本は、そのたびに本が送られてくるため、何十冊と 床にひろがった絵本の数々を見ていると、母の人生は絵本とともに まるで絵本の海の中にいるような気分になった。いっこうに進まな 仕事部屋を持たず、いつも茶の間の炬燵に座り、傍に辞書を積み上 箱につめた本のほとんどは、母の翻訳書なのだが、数箱は父、吉上 吉上昭三は、夢を追う人というか野望を持っている人だった。ポー 「莉莎子はいいなあ。絵本の文章は短いものなあ。こっちは長編 そんなふうに父はぼやくことがあった。 なるほど『クオ・ヴァディス』(シェンキェヴィッチ 著 旺文社文庫 のちに福音館書店)のように分厚い上下巻もの長編をコツコツと そんなとき母は口をとんがらせて「あたしだって、若いときは長 たしかに『町からきた少女』(リュボーフィ F.ヴォロンコーワ 著 岩波書店)や『ミーチャとまほうの時計』(ヤグドフェリド、 母は体が弱く、とくに交通事故にあったあとは常に背中に痛みを抱 内田莉莎子というと『おおきなかぶ』や『しずかなおはなし』(サムイル・マルシャーク 文 / ウラジミル・レーベデフ 絵 福音館書店) などの絵本の翻訳者として知られているが、莉莎子は自分の代表 (ルドウィク・J.ケルン 作 カジミェシュ・ミクルスキ 絵 岩波書店)といっている。 『すばらしいフェルディナンド』は1967年の本だ。フェルデ フェルディナンドは洋服屋で洋服をあつらえ、立派な紳士として いまは残念ながら休刊状態なのかな。 もちろん、すぐに了解したのだけど一向に出版されなかった。 担当の編集者にあとで聞いたところ、著作権の問題があったそうだ 母が翻訳したころはポーランドは社会主義国で著作権などは国の役 どこに問い合わせをしたらいいのかもはっきりしない。編集者に そこからが大変で、エージェントはかなり高額な金額を請求したら そして休刊中の期間も著作権料を支払えと要求したという。 「もうこりごりです」と編集者はいっていたが、交渉の末、どう 両親は70歳を迎える前に亡くなってしまった。あと10年は仕事 #
by kyotakyotak
| 2024-03-23 21:24
| 本
2024年 02月 25日
第176回 うつむいて、GO GO! 年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。 1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。 #
by kyotakyotak
| 2024-02-25 12:28
| 本
2024年 02月 25日
第176回 うつむいて、GO GO! 年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。 1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。 #
by kyotakyotak
| 2024-02-25 12:28
| 本
2024年 02月 25日
第176回 うつむいて、GO GO! 年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。 1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。 #
by kyotakyotak
| 2024-02-25 12:28
| 本
2024年 01月 23日
大晦日は毎年の決まり事のように紅白歌合戦を見て、 新しい一年は少しは良くなるようにと思っていたら、元旦、 そして羽田空港の事故が起こり、 5日は用事をすませたついでに渋谷へ向かった。 松濤美術館での『なんでもないものの変容』 心地よい疲れを感じながら渋谷駅に向かったが、 そのとき、頭の中に何十年もまえに見た『二十歳の恋』 映画のこと、うろおぼえなので調べてみた。 覚えているのは、 若かった当時、この映画を見たときは、 こんなふうに「あけましておめでとう」 そうはいっても日々は続く。 豪徳寺にある七月堂古書部に行った。1月28日(日)に拙著『 茂木さんとのセッションは二度目で、 昨年は古書ほうろうで山川直人さんとトークをさせていただいたり 七月堂古書部は、詩の本の出版社・ そのとき目に入ってきたのが『場末にて』(西尾勝彦 詩 七月堂)だった。「場末」という言葉に惹かれた。 著者のコメントには、 「いつも どこでも 場末に辿りついてしまうのが これからの あなたの 遠い 道のり」 それでもぼくは、とぼとぼと、 ともすれば自分のことがいやになり、 決して「胸を張って」とか「晴れ晴れとした」ではないけれど、 七月堂古書部では、昨年12月の池之端・古書ほうろうに続き、 山川さんの原画もぜひ見てほしい! 【タイトル】『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』 【期日】2024年1月27日(土)~2月4日(日)11: 【会場】東京豪徳寺・七月堂古書部 世田谷区豪徳寺1-2-7 (小田急線・豪徳寺駅下車徒歩5分) よろしくお願いします。 #
by kyotakyotak
| 2024-01-23 10:08
| 本
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