昨日の続き:本
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音楽と本と雑文
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終活について
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---------------------------------------- 第77回 絵本の海におぼれながら思い出したこと ビル建て直しのため、格安で借りていた倉庫部屋を退去しなくてはならず、 ここ数週間、置いてあった夥しい数の本と格闘している。毎日、数時間に わたってダンボールから本を取り出し、床に並べて整理という作業。いったいどれだけの本があるんだろう。箱から出しても出しても、あとから本が湧き出てくるようだ。そろそろ腰が悲鳴をあげはじめている。 本の整理はいつかはしなければならないと思っていた。めんどうなこともあって、まだ早いと延ばし延ばしにしていたが、終活の日は、あちらのほうからやってきてしまったようだ。 そういえば30年ほどまえ、両親があいついで亡くなったとき、知人が本は資料用に3冊ほど保管して、ほかの本は処分したほうがいいとアドバイスを受けたんだった。ああ、そのときに決心していればなあ、といまさらながら後悔している。 そのときは両親の本を処分することに後ろめたさがあって、決心がつかず数千冊を倉庫に預けたままにしてあった。 父が所有していた原書は大学が引き取ってくれることになり、 2トントラックに積み込んだ。急な坂道を上がれず、見ていてヒヤヒヤしたのを覚えている。 母の持っていた絵本の原書は出版社が資料として保管したいと申し出てくれた。その後10数年がたったころ、出版社からこのたくさんの原書は何なのでしょう? という問い合わせがあった。結局、原書は利用されず倉庫の奥に沈んでいたようだ。 原書はなんとか行き場が決まったが、それでも何千冊かの本は残ったままだった。 半分以上が母、内田莉莎子の翻訳した絵本で、よくもまあ、こんなにたくさん仕事をしたものだ、とため息をつきつつ、あらためて感心している。 『おおきなかぶ』(A・トルストイ 再話 福音館書店)のように何度も再版されている絵本は、そのたびに本が送られてくるため、何十冊と積み上がっている。 床にひろがった絵本の数々を見ていると、母の人生は絵本とともにあったのだなあ、と思う。20歳を過ぎたころから亡くなるまで50年近くを好きな翻訳の仕事を続けられたことは、本当に幸せだったにちがいない。 まるで絵本の海の中にいるような気分になった。いっこうに進まない作業、絵本の海でおぼれているようだ。作業が進まないのは、本の重さに体力を奪われることもあるが、いろいろな思い出が蘇ってくるせいもあった。 仕事部屋を持たず、いつも茶の間の炬燵に座り、傍に辞書を積み上げて原稿を書いていた母のすがたが目に浮かんできた。原書の文字をじっと見つめて、時間をかけて訳文が頭に浮かぶのを待っていた。何か閃いたように、辞書を開いた。納得がいかないとほかの辞書を開いた。自分が納得がいく訳語が見つかるまでそれを繰り返した。まだインターネットなどない時代のスタイルなのかもしれない。だが、もし母が今も仕事をしていても、何冊もの辞書を調べる仕事の仕方は変わらなかっただろう。 箱につめた本のほとんどは、母の翻訳書なのだが、数箱は父、吉上昭三の翻訳したものだった。父は、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの紹介者として知られている。父が翻訳したレムの作品を読んでポーランド語を始めたという学生が訪ねてくることもあった。その学生たちはその後、優秀な大学の教授、翻訳者になっている。スタニスワフ・レムの作品は近年新しい翻訳者によって新訳で出版されるようになった。父は喜んでいるだろう。いや、きっと自分ももういちど翻訳者として加わりたかったと思っているだろうか。晩年の父は、「ああ、もういちどじっくりと翻訳の仕事をしたいなあ」といっていた。 吉上昭三は、夢を追う人というか野望を持っている人だった。ポーランドと日本を結びつける事業を常に考えていた。「迷ったら目をつぶって飛び込め」といつもいっていた。大学で教えながら、ポーランド文化を伝える雑誌『ポロニカ』を作り、5号まで出版した。プロデューサーとしても人材を育てることに熱心に取り組んでいた。それでもやはり翻訳の仕事が好きだった。 「莉莎子はいいなあ。絵本の文章は短いものなあ。こっちは長編を何ヶ月、 何年もかかって翻訳しても、それほど売れないし」 そんなふうに父はぼやくことがあった。 なるほど『クオ・ヴァディス』(シェンキェヴィッチ 著 旺文社文庫 のちに福音館書店)のように分厚い上下巻もの長編をコツコツと翻訳した父の気持ちはわかるような気がする。 そんなとき母は口をとんがらせて「あたしだって、若いときは長編をやっていたんだから」と抗議した。 たしかに『町からきた少女』(リュボーフィ F.ヴォロンコーワ 著 岩波書店)や『ミーチャとまほうの時計』(ヤグドフェリド、ビトコービッチ 著 偕成社)は子どものころ、ぼくも読んだ記憶がある。子どものころのぼくの印象では、母は絵本をひろげているよりも民話の原書や童話を翻訳していることのほうが多かった。 母は体が弱く、とくに交通事故にあったあとは常に背中に痛みを抱えていた。50年以上を背中の痛みとともに生きたといってもいいいだろう。 内田莉莎子というと『おおきなかぶ』や『しずかなおはなし』(サムイル・マルシャーク 文 / ウラジミル・レーベデフ 絵 福音館書店) などの絵本の翻訳者として知られているが、莉莎子は自分の代表作というか翻訳者として生きていく自信を得たのは『すばらしいフェルディナンド』 (ルドウィク・J.ケルン 作 カジミェシュ・ミクルスキ 絵 岩波書店)といっている。 『すばらしいフェルディナンド』は1967年の本だ。フェルディナンドという、人間のように立って歩けるようになった犬の話。飼い主の家から出た フェルディナンドは洋服屋で洋服をあつらえ、立派な紳士としてレストランで食事をしたり、ゆく先ざきでといろいろと事件にまきこまれる…ナンセンスなユーモアにあふれていて、とにかく洒落ている本だった。挿絵のイラストが楽しくて、雨がふっている場面では、「雨、雨、雨…」と雨という文字が雨粒のようにふっている絵だったのがとても印象的だった。 いまは残念ながら休刊状態なのかな。 絵本だけでなく読み物も復刊してほしい作品がたくさんあるけれど、じつは古い本についてはいろいろと難しいこともあるらしい。以前、母が翻訳した ポーランド童話を復刊したいので著作権の許可を求められたことがあった。 もちろん、すぐに了解したのだけど一向に出版されなかった。 担当の編集者にあとで聞いたところ、著作権の問題があったそうだ。 母が翻訳したころはポーランドは社会主義国で著作権などは国の役所が窓口になっていた。現在はそれぞれの著者、もしくはエージェントが著作権を管理している。だから、復刊するにはまず著者をさがすところから始めなくてはならない。古い本ならば、著者が亡くなって著作権が移っていることになる。 どこに問い合わせをしたらいいのかもはっきりしない。編集者に相談されて、ポーランドの知人に心当たりを聞いてみた。やはり著者は亡くなっていて、どうやらエージェントが著作権を管理しているらしい。 そこからが大変で、エージェントはかなり高額な金額を請求したらしい。 そして休刊中の期間も著作権料を支払えと要求したという。 「もうこりごりです」と編集者はいっていたが、交渉の末、どうにかその本は復刊された。時間が経つと政治体制も変わり、経済も変わる。子どもの本だって、政治と無縁とはいえないのだ。 両親は70歳を迎える前に亡くなってしまった。あと10年は仕事が出来ただろう。10年あれば、いったいどれだけの作品を残せたんだろう? そんなことをいっこうに終わりそうにない整理をしながら思った。母の膨大な仕事の成果の横に積み上げられた、ぼくの絵本を見ながら、まあ、不肖の息子にしてはたいしたもんだ、と思った、というより思うことにした。]]>
本のメルマガ 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』
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年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。
1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。
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年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。
1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。
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年が明けてからは、拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』のイベント があって落ち着かない日々が続いた。昨年末に古書ほうろうで山川直人さんとのトークがあった。おかげさまで盛況で、山川さんとおたがいに「がんばった!」と称え合って終わりホッとした。それもつかのま、1月28日 には七月堂古書部での茂木淳子さんとの朗読ライブ&トークが控えていた。音 楽のライブはときどきやってはいるが、トークというのは慣れていない。何を 話したらいいか考えるとますます緊張してくる。 そんなふうに過ごしている中、従妹の堀内花子から一冊の本が届いた。 『父・堀内誠一が居る家 パリの日々』(堀内花子 著 カノア)。昨年からときどきパリでの日々を執筆中と聞いていたけれど、カバーは堀内誠一が描いたパリの風景を装画にしたしゃれた本だった。 堀内誠一のことをいまさら説明するまでもないと思うけれど、『anan』 『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌のアートディレクターとして、エディトリアルデザインの先駆けとなった人で、ぼくの世代では、こんな雑誌を作ってみたい、と憧れの人だった。 それだけでなく、絵本作家として『くろうまブランキ─』『たろうのおでかけ』『ぐるんぱのようちえん』をはじめ多くの作品を残している。 1974年、42歳のときに誠一さんは雑誌とデザインの現場からいったん離れて、家族を連れてパリ郊外へ移住した。この本は、当時中学1年生だった長女の花子が、パリで過ごした日々を中心に父・誠一との思い出を綴ったエッセイだ。 身内贔屓を抜きにしても、面白くていっきに読んでしまった。 もちろんこの本は堀内誠一のパリでの暮らしを書いたものだけれど、ぼくが面白く思ったのは、堀内一家が初めてパリという異国で生活したときの様子をまだ中学1年生、13歳だった花子の目でとらえているところだった。 子どもの視線で語るからこそ、堀内誠一というアーチストの家庭人としてのすがたが立ち現れる。そして堀内誠一という人が「家庭人」だったということがわかった。自分の人生の基盤が家族との生活にあったというのが伝わってきた。 忙しい日本での生活を逃れて、絵本を中心にした仕事を始めるという、新しい出発は家族とともにあった。そしてその日々のことをだれよりもそばで見てきた家族だけにしか書けない本なのだと思う。 安野光雅、澁澤龍彦、石井桃子、瀬田貞二、谷川俊太郎、出口裕弘など堀内一家を訪ねてくる友人たちとのエピソードや旅の話も楽しい。 花子をパリまで送っていったのは、ぼくの母、内田莉莎子だったんだなあ。 ぼくは東京でくすぶっていたけれど、両親はポーランドをはじめヨーロッパに出かけていたっけ。 それにしてもまだ中学生だった花子は、フランス語はまったくわからず、生活の習慣もちがうし、学校生活も日本とはかけはなれている。半世紀も前のこと、パリの情報だってかんたんに手に入らない。よくくじけなかったなあ、と感心する。 入学したカトリック系女子中学校での話がとびきり面白かった。当時のフランスでは「日本人」という認識がなくて、右も左もわからない「中国人」と扱われていたり、おそらく問題児ばかりのクラスに入れられていたようだったし、差別主義修道女がいたり、少女小説になりそうな話ばかりでもっとくわしく話を聞きたくなった。給食に前菜があったり、主菜にクスクスやシュークルートがあり、デザートもあるなど、さすがにグルメの国と改めて思った。 高校生になってから自由な空気に触れて、授業をさぼって映画に行ったりする感じもいい。このときの映画が『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』とい うのもいい。アメリカンニューシネマの時代だったんだねえ。その映画館で先生と出くわすエピソードも微笑ましい。フランスの学校での生徒と教師の関係はうらやましい。全部の高校が同じではなかったかもしれないが。高校には喫煙室があって休憩中は教師と生徒(!)で賑わっていたとか。 ぼくは従兄弟ではあるけれど、当時のことをくわしくは聞いたことはなかったから、さまざまなエピソードに笑ったり感心したり、ありふれた日常のドラマチックでないドラマというか、まるでエリック・ロメール監督の映画でも見ている気分になった。 堀内誠一が好きだった映画やマンガ、そして音楽の話もたっぷり書いてある。 パリではポータブルのプレーヤーにモーツァルトやシューベルトのピアノ曲のレコードが載せられていたみたいだ。 そういえば誠一さんにレコードをもらったことがある。 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』だった。「もう聴かないからあげる」といったのを覚えている。あれはパリに行く前だったんだろうか? もうクラシックしか聴かなくなっていたころだったのだろう。 花子がいつだか言っていた「書き残さなくてはいけない記憶」は、半世紀の年月が過ぎて一冊の本となった。堀内誠一一家のパリの暮らしは、数々の絵本やイラストが生まれた堀内誠一の新たな出発の原点を知る意味で貴重だと思う。 半世紀まえのパリの空気も十分に伝わってくる楽しい本だ。
1月28日の世田谷・豪徳寺にある七月堂古書部での音の台所・茂木淳子さんとの朗読とトークの会は無事に終わった。昨年末の古書ほうろうでの山川直人さんとのトークに続く七月堂でのイベントは昼、夜の2部構成という生まれて初めての経験だった。 イベントを振り返ってみると、人前で話をするのが苦手で、だから必死になりすぎて時間を忘れて話し続けた古書ほうろうでのトーク。とりとめのないトークだったかもしれないが、山川さんが中学生のときからマンガを描き続けるために「マンガ家」になることを決めていたこと、そして今回の装画の仕事を銀行強盗に喩えるなど、たんたんと面白い話をして山川ワールドを披露してくれた。 七月堂古書部でのイベントはなんといっても茂木淳子さんの朗読だった。 七月堂古書部が明大前にあったころ、茂木さんに招いてもらったことがある。 そのときは沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターで伴奏をした。朗読の伴奏は初めてだったけれど、茂木さんの言葉、呼吸にギターを合わせる、というセッションは、茂木さんの声が ときには歌っているようで、ギターを弾きながらとても心地よかったことを覚えていた。 それで今回、もし自分の文章を茂木さんに読んでもらえたら、どんなにいいだろう! と無理を承知でお願いをしてみた。 茂木さんが選んでくれたのはいちばん最後の「電話ボックスとちいさな切り株」というエッセイだった。小学生からの友人、Oくんとの思い出を書いている。ぼくはOくんから「世界の広さ」を学んだ。体が弱く長く歩くこともできないOくんだったが、ぼくはOくんから、探究心や深く考えること、そしてユーモアのセンスを学んだ。毎日、お母さんの迎えの車を待つ20分から30分、 ぼくは切り株に座ったOくんの話を聞いた。 茂木さんは、はるか50年以上も時間をさかのぼった「電話ボックスとちいさなきりかぶ」の風景を朗読で表現してくれた。 言葉は不思議だ。ぼくが書いた文章なのだけれど、茂木さんの声、リズムで読まれた言葉は新たな命を吹き込まれたようにぼくの耳に届いた。朗読にギターを合わせるのは難しい。どこで音が切れるか、自分が弾いているフレーズと文章のとぎれる場所と合わなくて、早すぎたり、遅過ぎたり……。でも、ときおりぴたりと合ったときの気持ちよさはうまく言い表せないほどだった。 ぼくと茂木さんは歳が近く、そして生まれ育った場所も近かった。トークは、「自分たちは、まだ戦後を生きてきた」だった。戦後は終わったといわれて、高度成長期の時代とともに育ったきたが、街に出れば傷痍軍人たちが悲しいメロディーを奏でていた。そして再び、日本は「戦前」に舞い戻ろうとしている危機感を抱いている。沖縄に住む茂木さんが肌で感じる米軍、基地のこと。 時間が足りなくなるほど、聞きたいことがたくさんあった。どこかでまた話を 聞く機会を作りたいな。 暮れ、そして新年が明けて忙しない中、来ていただいた方々、そして 古書ほうろう、七月堂古書部には感謝です。さえない人生だなあ、といつもうつむいてばかりいるぼくですが、けっこう幸せな人生なのではないかと感じています。
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正月に「場末」に出会う 本のメルマガ
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2024-01-23T10:08:00+09:00
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kyotakyotak
本
昨年後半から世間ではジャニー喜多川による性加害、ジャニーズ事務所の不誠実な対応、ジャニー喜多川をかばう大物ミュージシャンの発言、それに続き明らかになった宝塚歌劇団ハラスメント、そして暮れになって自民党の裏金、大物芸人の強制性交疑惑など嫌なことばかりあって、すっきりしない気持ちで大晦日を過ごした。昨年は「幻滅」の一年だった。 大晦日は毎年の決まり事のように紅白歌合戦を見て、ジャニーズのいない紅白も悪くないなあ、などと思っているうちに新年を迎えた。 新しい一年は少しは良くなるようにと思っていたら、元旦、能登半島の地震が起こり、この原稿を書いている時点で200人以上の方々が亡くなっている大災害になってしまった。胸が張り裂けそうな気持ちになる。 そして羽田空港の事故が起こり、3日の夜には山手線内で刺傷事件があって、ぼくも池袋駅で足止めされて、帰宅したのが深夜になってしまった。時間が少しずれていれば事件のあった車両に乗り合わせた可能性だってあったはずだ。これほど正月気分から遠い正月は初めてだった。 5日は用事をすませたついでに渋谷へ向かった。 松濤美術館での『なんでもないものの変容』という展覧会を見るためだった。瀧口修造、阿部展也という前衛写真から大辻清司、牛腸茂雄へと続く作品を時間をかけて見ることが出来た。 心地よい疲れを感じながら渋谷駅に向かったが、駅に近づくにつれて人混みがひどくなってきた。横断歩道を渡ろうと歩道から一歩踏み出すも反対方向、斜め前、あらゆる方向から人の列が押し寄せて歩けない。無理に列を横切ろうとして、若い女性のグループの行方を遮ってしまった。「じゃまだろ、くそじじい!」という心の罵りが聞こえてくる。ああ、何十年か前には、ぼくだって老人に向かって舌打ちをしていたにちがいない。もう軽やかに人混みをすりぬけることが出来なくなっている。 そのとき、頭の中に何十年もまえに見た『二十歳の恋』というオムニバス映画のシーンが浮かんできた。さえない中年男の顔だ。若者たちがパーティを開いている部屋をさびしそうな顔で出ていく男だ。どうしようもない孤独を抱えている。 映画のこと、うろおぼえなので調べてみた。1962年の作品でパリ、ローマ、東京、ミュンヘン、ワルシャワの五つの都市における青春と恋を追求したオムニバス映画で、フランソワ・トリュフォー、レンツォ・ロッセリーニ、石原慎太郎、マルセル・オフュルス、アンジェイ・ワイダの5人がメガホンを取っている。ぼくは20歳ぐらいのときトリュフォーに夢中で自主上映でこの映画を見た。いちばん印象に残っているのは、お目当てのトリュフォーの作品ではなかった。 覚えているのは、ポーランドの名匠ワイダが撮った初老の男と若者の世代ギャップをテーマにした作品だった。若いカップルが動物園でデートをしていると、クマの檻に少女が落ちる事故が起きる。周囲の人々は助けようにもクマの檻に降りる勇気が出ずにとまどうばかり。そのとき一人の男が柵を乗り越えて少女を助ける。デートをしていた若い女はデート相手の男をおしのけて、少女を助けた男のもとに走る。そして、自宅のアパートに招く。ふたりのときを過ごそうとするが、噂を聞きつけた仲間が押し寄せてパーティが始まってしまう。パーティの喧騒の中で男の心には戦争の恐ろしい記憶が甦える。戦争を知る自分と若者たちとのあいだにはどうしようもない隔たりがあった。やがて男はひとりアパートをあとにする。そんなストーリーだった。 若かった当時、この映画を見たときは、戦争を経験した世代と若い世代のギャップを描いているんだなあ、と思っただけだった。でも今、渋谷で感じた「居場所のなさ」はリアリティがあった。理屈ではなく肌感覚で世間との隔たりを思い知らされた気分だった。ここは、ぼくがいる場所ではないな。 こんなふうに「あけましておめでとう」と晴れやかにいうことができない正月だ。 そうはいっても日々は続く。 豪徳寺にある七月堂古書部に行った。1月28日(日)に拙著『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』出版記念の催しで茂木淳子さんとトークショーをするので、挨拶に伺った。茂木さんは「音の台所」(http://oto-kitchen.com/)のペンネームで音楽紙芝居の公演やリトグラフ作品を発表したり、沖縄のことをリポートしたZINも制作している。今回のトークでは茂木さんがぼくの本から「電話ボックスとちいさな切り株」という章を朗読してくれる。ぼくのギターとのセッションという形だ。 茂木さんとのセッションは二度目で、2019年に明大前にあった七月堂古書部で沖縄の古書店をやっている宇田智子さんのエッセイを茂木さんが朗読して、ぼくがギターを弾いた。茂木さんの声を聞いていると沖縄のゆったりとした空気が伝わってきて、リラックスして演奏したのをよく覚えている。 昨年は古書ほうろうで山川直人さんとトークをさせていただいたり、なんて恵まれているのだろう! 七月堂古書部は、詩の本の出版社・七月堂の編集部に併設された書店で、詩の本が新刊、古書ともに充実している。せっかくだから、何か詩集を買って帰ろうと思ったのだけれど、詩のことなどちっともわからないぼくには、どの詩集を選んだらいいのか困ってしまった。 そのとき目に入ってきたのが『場末にて』(西尾勝彦 詩 七月堂)だった。「場末」という言葉に惹かれた。メインストリームを歩いてこなかったぼくには、とても響く言葉だった。ぼくの担当編集者、天野みかさんが「それ、とてもいいですよ」と声をかけてくれる。 著者のコメントには、大阪の小さな書店の店主を描こうと書いていたら、次第に自分のこととなり、未来のこととなり、すべてのアウトサイダー、場末を支えるひとたちのための言葉」になっていた、と書いてあった。すべてのアウトサイダーへ贈る詩集だった。ぼくはアウトサイダーというより落ちこぼれなのだが、最初の詩を読むとスーッと肩の力が抜けていくのを感じた。「いつも どこでも 場末に辿りついてしまうのが これからの あなたの 遠い 道のり」 それでもぼくは、とぼとぼと、うつむいて歩いていくしかないんだなあ。 ともすれば自分のことがいやになり、暗い気持ちで歩いているぼくだけれど、「場末」はそんなぼくに「それでもいい」と言ってくれている。 決して「胸を張って」とか「晴れ晴れとした」ではないけれど、ぼちぼちいければいいんじゃない、という感じ。 七月堂古書部では、昨年12月の池之端・古書ほうろうに続き、山川直人さんの『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』の刊行記念装画原画展を行ないます。 山川さんの原画もぜひ見てほしい!【タイトル】『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』刊行記念装画原画展【期日】2024年1月27日(土)~2月4日(日)11:00~19:30/1月31日(水)休み【会場】東京豪徳寺・七月堂古書部世田谷区豪徳寺1-2-7(小田急線・豪徳寺駅下車徒歩5分) よろしくお願いします。]]>
雨が好きな犬
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2023-12-22T20:29:00+09:00
2023-12-22T20:29:52+09:00
2023-12-22T20:29:52+09:00
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本
----------------------------------------- 第174回 雨が好きな犬 不眠症に悩まされている。寝付くことは寝付くのだけど、夜中過ぎに目がさめてしまい、それからまんじりともしないで朝を迎えてしまう。もともと不安症の癖があって、ちょっとしたことがプレッシャーになって、胸がわさわさと苦しくなってしまう。眠れないとついついYouTubeでお笑いなどを見てしまって、結局寝そびれてしまうことが続いた。これはいかん、というわけで老眼がひどくなったためやめていた読書にもどることにした。 最近、枕元に置いているのは、詩集、エッセイ集、そして『雨犬』(文 外間隆史 版画 柳本史 未明編集室)という絵本。枕元の積ん読本は地震があったときに危険なので、ほどほどにしておこうと思います。『雨犬』は、ネットで見かけたとき、カバーの版画がものすごく気に入ってしまった。犬を抱いた青年の版画なのだが、青年の犬を愛おしむ表情と犬のとまどった様子を見て胸をぎゅっとつかまれてしまった。 一匹の老犬「雨犬」が若いペンキ職人と出会い、静かな暮らしをはじめる。その日々をたんたんとつづった物語。つつましいけれど、詩と音楽そしてコーヒーに彩られた豊かな時間が過ぎていく。 ああ、こんなふうに一日を過ごせたらいいのになあ、と布団の中で急きたてられるように過ぎていった自分の一日を思う。『雨犬』を読んでいるといつもほろりと泣いてしまう。涙には、コルチゾールというストレス成分を低下させる作用があって、だから泣くとデトックスになるらしい。寝る前に読むには最適な本みたいだ。 ところで、ぼくは「5分に1回、ため息をついている」と、つれあいにクレームをつけられる。ネットで調べたら、ため息は深呼吸と同じで、体に酸素を満たして神経のバランスを取ってくれるらしい。ため息をついても、見逃してほしいなあ。「雨犬」は記憶を収集している。人が切手を集めるように。新鮮なものもあれば、ヴィンテージもあるという。「雨犬」はぼくの記憶も呼び起こしてくれる。 ペンキ職人が拾ったニール・ヤングのレコード。「なんとかという歌」はところどころ傷があって、いい匂いがした。巻末に注があって、その歌はアルバム「AFTER THE GOLD RUSH」の「ONLY LOVE CAN BREAK YOUR HEART」と書いてあった。中学生のときに、初めて買ったニール・ヤングのアルバムで、いちばん好きな曲だった。 昔、「ヤング720」という朝のテレビ番組があって、岸辺シローとブレッド&バターのふたりがいっしょに組んでいたSHIRO,BREAD & BUTTER がこの曲を歌ったことがあったなあ。ハーモニーが美しかった! そのあとに「野生の馬」を歌ったように思う。名曲だと思う。 そんな何十年も前の記憶があざやかに蘇ってくる。テレビが置いてあった洋間、ぼくはソファに座って、たぶん朝食のトーストをほおばりながら見ていたのだと思う。横には父親が座っていたかもしれない。そんなささいな記憶がぼくのノスタルジーを刺激してくる。「雨犬」がつれてきた「記憶」だ。 池間由布子、ジョアン・ジルベルト、ジョニ・ミッチェル、ジュディ・シルなど登場する音楽はぼくにも耳馴染みがあるものばかりだ。それにしても、ぼくの好みの音楽を知っているようにも思える、『雨犬』のテキストを書いている人はどんな人なんだろう? 外間隆史は、音楽プロデューサーとして活動していた人だった。ぼくが知らなかっただけかもしれないな。遊佐未森のプロデュースもしている。どうりで『雨犬』の物語を通して、静かな音楽がバックグラウンドに流れているような気持ちになったのも、なるほどだな、と納得した。『雨犬』を読むたびに胸がいっぱいになったのは、ぼくにも老犬と別れたことがあるからだろう。 その柴犬の子犬は車に轢かれたのだろうか、ガソリンスタンドのかたすみでうずくまっていたそうだ。ガソリンを入れにきた叔母が見つけて、急いで獣医に連れて行った。獣医は、治療するにはかなりの金額が必要だといって安楽死をすすめたのだが、結局 、子犬はうちで飼われることになった。 バンと名付けられた柴犬は、まるでぼくの弟のように育てられた。 それから十数年が経ち、うちに来た当時推定生後半年だったバンは、老犬になっていた。澄んだ瞳は白く濁り、視力はほとんどなくなっていた。それでもぼくを見つめる瞳には、「信頼」の光が宿っていた。そうだった。どんなことがあっても、ぼくのことを信用して、ぼくのいうことを理解しようとしている瞳は、いつも変わらなかった。そして辛かったときのぼくを救ってくれた。話しかけると、耳をこちらに向けて、じっと目を見てくれた。 犬がどんなことを考えているかなんて本当のところはわからないけれど、ぼくのことを疑っていないことは確かだった。だから、バンの気持ちを裏切ることはしたくなかった。お互いを信頼することを大切にしたかった。 足が弱って歩くこともままならくなってからも、バンは夜中に起き出して外に行きたがった。庭に出してやると、バンは夜空を見上げるようにして、鼻をつきだして、くんくんと風の匂いをかいでいた。そのすがたは、この世と別れることを惜しんでいるようにも見えた。『雨犬』を読むとき、もう何十年も別れたバンのことを思い出し、そして自分も老人になったことを思う。ぼくも記憶を拾いながら生きていこうと思う。ハン・ガンや原民喜の詩を読んでみよう。シューベルトのピアノ・ソナタ集第一三番イ長調は、エリザーベト・レオンスカヤのものがなかったので、とりあえずアシュケナージのアルバムを買ってきた。 雨犬のように静かに過ごして、ぼくもペンキ職人の青年に出会いたい。 先日の古書ほうろうでの拙著『ぼくは「ぼく」のようにしか生きられない』出版記念トークは、無事に終わりました。来てくださった方、気にかけてくださった方、みなさん、ありがとうございます。 挿絵を描いてくれた漫画家の山川直人さんとのトークは楽しかったです。予定では、ふたりの幼いころから現在に至る道のりを話すことになっていたのですが、山川さんもぼくも真面目にきちんと話そうとすると、結果、ダラダラトークになってしまって時間があっという間に過ぎてしまいました。子ども時代の話で時間切れとは……。緊張していたのか、時計を見る余裕もありませんでした。すみません。「漫画をずっと描いていたいから、漫画家という職業を選んだ」と中学生のときから、将来のことを決めていた山川さん、ぼくの人生の向き合い方とまるで違っていたし、本作りを銀行強盗団に喩えたり、山川直人ワールドはやっぱり面白い!山川直人さんの『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』装画原画展場所 古書ほうろう会期 2023年12月8日(金)〜12月29日(金)12〜20時[会期中の休み]定休月火のほか、12/20(水)https://horo.bz/event/yamakawa-kyota_20231205/お知らせばかりですが、もうひとつ!『ぼくは「ぼく」でしか生きられない』の刊行記念トークショー第二弾があります。豪徳寺の書店「七月堂古書部」で開催していただくことになりました。今回は、音楽紙芝居でお馴染みの茂木淳子(音の台所)さんが出演してくれます。同じ世田谷で育った同世代の茂木さんとのトーク、そして朗読も楽しみです。2024年1月28日(日)です。詳しくはhttps://note.com/shichigatsudo/n/nc566164d3000開催日:2024年1月28日(日)�時間:昼:13時~14時/夜:18時30分~19時30分� (オープンは各回スタートの30分前)�場所:七月堂古書部�参加費:各回1500円(当日精算)�定員:各回10名よろしくお願いします。]]>
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2023-11-26T13:58:00+09:00
2023-11-26T13:58:49+09:00
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2023-10-23T14:09:00+09:00
2023-10-23T14:09:14+09:00
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本
それほど読まないけれど好きなことは好きなようだ。そうでなければ本の山で部屋を埋め尽くすことにはならない。 散歩のときに寄る店は書店が多い。というか書店がある町を歩くのが好きで、散歩の目的は本屋に寄ることだったりする。ついでにレコード屋があればいうことなし。 お気に入りの書店の棚を見ていると、「この本、いいですよ」と語りかけてくるような気がする。小さな店は、限られたスペースではあるけれど、その店ならではの選書をしていて楽しいし、大型書店でも、そのフロア担当者の思いが伝わってくるコーナーがある。並んでいる本を見ていると、書店の担当者と会話をしている気分になってくる。大型店でも小さな店でも、そういう気分にしてくれる書店が好きだ。 先日、千駄木にある往来堂書店の棚を見ていたら、『ことばの白地図を歩く』(名倉有里 著 創元社)が棚差しになっていた。それも2冊も! この本を知ったのは、YouTubeで配信されている報道番組「ポリタスTV」だった。ジャーナリストの津田大介がホストを務める時事問題を扱っている番組だが、3週間に一度、たしか木曜日だと思うが、「石井千湖の沈思読考」という書評家の石井千湖が本を紹介している。 そこで紹介された『ことばの白地図を歩く』という本はタイトルを聞いたときから、読みたくなった。タイトルって大事なんだな。昔、出版社に勤めているとき、営業部の人に「本のタイトルと装丁で売れ行きが変わる。よく考えろ!」と怒られてばかりいたけれど、本当なんだね。魅力的なタイトルはそれだけで読みたくなる。 それにこの本には「翻訳と魔法のあいだ」というサブタイトルがついていて、いちおう翻訳の仕事もすることがあるぼくは、ぜひ読まなくちゃいけないな、と思っていた。魅力的な選書をしている往来堂書店が2冊も棚差しにしていたのだから、面白いこと間違いなし! すぐに手に取りレジに向かった。『ことばの白地図を歩く』は創元社の「あいだで考える」シリーズの1冊だった。このシリーズは「自ら考える力」「他者と対話する力」「遠い世界を想像する力」を養う多様な視点を提供する、とコンセプトが巻末の「創刊のことば」に書いてあった。対象年齢は10代以上だれでも、とあって基本的には中学生ぐらいを頭に置いて書いているのかな。『ことばの白地図を歩く』は、ゲーム好きの年代が読みやすいようにロールプレイングゲーム仕立てにしてあって、各扉に謎が与えられている。 ストーリーの語り手は印刷機だ。「言語や文化」という難しいテーマを児童文学を読むようにやさしく解説している。 といって内容は子どもだけに向けられてものではなく、母語以外の言葉を習得すること、翻訳とはいったい何をすることなのか、60代になったぼくにも実に学ぶところが多かった。 著者の名倉有里さんは、ロシア文学研究者で翻訳家。ロシア国立ゴーリキー文学大学を日本人として初めて卒業した。 ロシア語との出会いが素敵だった。子どもの頃、おかあさんの故郷である新潟で休みを過ごして、東京ではめったに見られない、どっさりつもった雪の世界に魅了される。新潟に行けないときは、「読むだけで雪景色の中に連れていってくれるような本」を読んだ。そして中学生のときにレフ・トルストイの小説に出会う。新潟で米を作っているおじいさんもトルストイが好きだったという。ロシアへの思いが募って高校時代に独学でロシア語を始める。 こんなふうに語学との幸運な出会いがあるんだなあ。名倉さんは書いている。「つまりは好きになるきっかけを見つけて、ときめいてしまえばいい。学べば学ぶだけ身近になり、知るほどに新しい世界を見せてくれる。そして運命だと思いつづけていれば、いずれは運命になってくれるのだ」と。 これは語学に限ったことだけじゃないかもしれない。ほかの学問でも、音楽でも、スポーツでも「新しい世界」を見るために人はがんばるのかもしれない。ときめきを忘れないことが肝心なのだろう。 ぼくの家には、ロシア語の本がたくさんあった。子ども向けの絵本だってたくさんあった。父は毎日、短波ラジオでロシアのニュースを聞いていた。幼いぼくにはロシア語の響きは暗号のように聞こえて、スパイみたいでかっこいいな、と思ったのを覚えている。 でもぼくはロシア語に魅了されることはなかった。「おまえがロシア語やポーランド語をやるなら、いくらでも資料があるんだぞ」と冗談まじりに両親はいったけれど、ぼくは「不肖の息子」を絵に描いたような子どもだった。正直にいうと、名倉さんの文章を読んでいると両親の失望が思い浮かんできて、チクリと胸が痛んだ。 語学や翻訳についてとても面白く書いている本だけど、ぼくがとくに印象に残ったのは第2章の「文化の選びかた」だった。ぼくもうっかりと使ってしまう「異文化」という言葉に疑問を投げかけている。 名倉さんはテリー・イーグルトンの著書『文化とは何か』(大橋洋一 訳 松柏社)を本棚から取り出して語っている。ここのところは、ちょっと難しい。でも、とても大切な文章が続いている。「文化とは、人と人がなにかしらの共通の様式を用いて理解しあうための営み」であるのに、現代は「理解しあう営みという最も重要な点がおろそかになって、互いの違いを強調し優劣を決めたがるようになっているのではないか、と名倉さんはいう。 そして「異文化」という考え方には、前提として自分の属する文化があって、しかもその文化は自分自身で選んだものではなくて、生まれた国であったり民族に結びついている。ぼくならば日本とか日本人ということになる。日本文化とそれ以外の文化と線引きをしてしまうことは、かんたんに排外的な姿勢につながってしまう。『異文化の「異」は人間の意識が作りだす恣意的な線引きでしかない』 名倉さんの言葉は、それまで「異文化」という言葉を意識していなかったぼくには、目から鱗だった。 そして『思うままに好きな文化を選び、その知識や技術を磨いていけば、誰でも世界じゅうに「共通の文化」を担う人を見つけられる』と若い人たちに励ましの言葉を書いている。『ことばの白地図を歩く』という本は、これから語学を始める若い人たちにぜひ読んでもらいたい。 翻訳家になりたい人には、言葉や文化に対する心構えや具体的な学習法など名倉さん自身の体験から得た知識がたくさん書いてある。正直いって、ぼくには耳が痛いことばかりだったけれど。 翻訳家になりたい、という若い人がどれだけいるかわからないけれど、この本を読めば目指したくなるんじゃないかな。いや、翻訳家志望の人でなくても、言葉や文化のことをもっと知りたくなるだろう。
最後に少し宣伝です。かもがわ出版よりエッセイ集が出ます。『ぼくは「ぼく」でしか生きられない 役に立たない“人生論”』というタイトルで、ぼくが経験したいろいろな仕事のこと、出会った人たちのことを書きました。10月23日ぐらいに書店に置かれる予定です。漫画家の山川直人さんに表紙や挿絵を描いてもらいました。 もう一冊、翻訳の絵本が出ています。『ゆきのひ』(サム・アッシャー 絵・文 徳間書店)です。雪の日、おじいさんといっしょに不思議な冒険をするお話です。書店で見かけたら、手にとってみてください。]]>
関東大震災から100年
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2023-10-05T18:56:00+09:00
2023-10-05T18:56:13+09:00
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本
今年は1923年9月1日に起きた関東大震災から100年になる。死者10万人、
29万戸以上の家屋が失われた。ぼくが子どものころは、まだ関東大震災を体験した人が生きていて、その恐ろしさを教えられてきた。ぼくたちの世代は子どものころから、地震の恐ろしさを教えられて育ってきたんじゃないか。ぼくは母方の祖母から、地震の話を聞いたことがある。それは、恐ろしかった記憶とともにロマンスの話でもあった。 なんでそんな話になったのか、いまではよく覚えていないが、おそらく思い出話を聞いているうちに祖父とのなれそめを話すことになったんだろう。「おじいちゃんと初めて会ったのは、大地震の日だったんだよ」 祖母はとくに恥ずかしがるでもなくたんたんと話をしてくれた。 大正12年9月1日、祖母は津田英学塾の夏期講習会で仲良くなった同級生の家をたずねていた。家は新宿の柏木にあった。同級生とは、内田田鶴子といって評論家、翻訳家、小説家・内田魯庵の次女だった。 当時のことを祖父・巌が『絵画青春記』に書いている。以前、少し紹介した本だけれど、祖父と祖母の出会いと関東大震災のことを書いてみたい。 昼時でライスカレーを食べていると、突然の地震があった。「たいしたことはないだろう」とそのまま食べていると、いきなり天井からドサッと土くれや埃塵が落ちてきてライスカレーはめちゃくちゃにされた。時計が落ちる。隣の台所の茶碗が一時に壊れる。屋根瓦が崩れだす大変なことになった……。 大震災に遭いながら、のんびりしているなあ。こんなところに祖父・巌の人柄が現れている。 そのときだった。 よろめきながら一人の少女が入ってきた。「吉居静子だ」巌は咄嗟に感じる。 これが祖父・巌と祖母・静子の出会いだった。まるでドラマのような、少女小説のような出会いだ。『絵画青春記』を読むと、静子は田鶴子に田鶴子の兄が画学生と聞いて興味を持っていたらくて、しきりに紹介してほしい、といっていたようだ。田鶴子はそのことを手紙で巌に知らせていた。巌もまんざらでもなく、静子がどんな少女か想像していた、と書いている。 そうだ、地震の話だ。「安政以来だ、安政以来だ」と叫びながら魯庵が転がるように二階から降りてくる。 家中の人間が次の室のタンスのかげにいつのまにか集まってじっと身を縮めた。静子も妹・田鶴子も泣いている。16歳の田鶴子、10歳の茉莉子、7歳の恵美子、6歳の穆、いつか二人の女中も集まっていた。地震が少しゆるやかになったとき、それっという魯庵の合図で皆、庭へ飛び出して、いちばんすみの5坪ばかりの芝生へ集合した。そこに近所に住んでいた大杉栄が長女魔子の手を引いて逃げてきた。 当時7歳だった恵美子が「魔子ちゃんとはよく遊んだわ」と懐かしそうに話していたのを思い出した。大震災の混乱の中、大杉栄は伊藤野枝とともに甘粕正彦憲兵大尉ら憲兵に連行されて殺害された。 巌が大杉栄の眼を「鋭いが好きな眼だった。輝いているが人を探るような感じや、人を戒めるような威厳が持っていなかった。強く鋭いが澄んでいた」と書いているのが印象的だった。 火事が数カ所に起こり、不思議な雲がむくむくと東京の空を覆っていた。次から次へ地震の惨事が伝えられ、避難者の群れが往来を通っていった。 魯庵に命じられて、巌は静子を千駄ヶ谷まで送っていった。その道すがら二人は話し込み、巌はすっかり静子のことが気に入ったようだ。歌人だった祖母は少女のころから歌を作って『婦人の友』へ毎月投稿していた、と書いてある。若山牧水の選に入ったこともあったらしい。村山知義の絵が好きだったとも。静子さん、このころからモダンな絵が好きだったんだな。中学生のぼくをイヴ・クラインやベン・シャーンの展覧会に連れていってくれた人だ!「別れを告げて早足で小さな辻を曲がったが振り返ってニッコリ笑って、おじぎをしてさらに速度を早めるように駆け去った」なんてまるで昔の青春映画じゃないか。やるなあ、お静さん。これで巌さんのハートを射止められてしまったようだ。 未曾有の犠牲者を生んだ悲惨な大震災だったが、この日がきっかけとなって祖父と祖母は恋に落ちた。悲劇のかげで生まれたロマンスだった。そしてこの日、ふたりが出会わなければ、ぼくはこの世にいなかったかもしれない。 17歳の静子さんに会いたかったなあ。『絵画青春記』は、震災後の混乱が書かれている。読んでいると地震の恐ろしさよりも、被災後のデマによる民衆の暴力や社会主義者に対する憎悪のほうが恐ろしかった。「2日午後には朝鮮人襲来のデマや社会主義者に対する警報が飛んだ」とある。余震が続き、内田家は相変わらず庭の芝生で過ごしていた。大杉栄もやはり内田家の庭を訪れていた。 巌が焼け野原になった東京の様子を「ローマの廃墟を見るようだ」と話すと大杉は声を立てて笑ったという。 その大杉には襲撃の噂が立っていた。 刀を持った自警団が物々しく横行していて、家から一丁ばかり離れた理髪店の主人は国粋会員だった。そこに集まっているごろつきどもが大杉一味の家をぶち壊して、社会主義者を皆殺しにしろと言っているから気をつけろ、と小説家の安成二郎が青くなって報告に来た。 こんなふうに国粋主義者たちが作った自警団に狙われてはいたが、大杉自身は町内で編成された自警団に参加して、いっしょに見回りをしている。 ある日、魯庵と巌が家の角に立っていると、「これをご覧なさいません」と夕刊を差し出す婦人がいた。優しく甘い静かな声だった。「魔子ちゃんのお母さんだよ」と魯庵が紹介する。女アナーキスト伊藤野枝だった。あまりに女らしい婦人だったことに巌が驚いている。「大杉も自警団で忠実に立っていますのよ」と野枝は多少自嘲的にいった。青白い黄昏の光に浮かんだのは明るい顔だった。きめこまかい豊かな笑顔、太った首筋に真っ黒な多い髪を無造作に束ねていた。 急に大杉栄と伊藤野枝の姿は近所に見えなくなった。「大杉は憲兵につかまって殺された、明日発表だ」と魯庵のもとに報告があった。 その日も魔子は庭で遊んでいた。新聞社の写真班が魔子の写真を撮った。魔 子はいつも7歳の同じ年の恵美子のところへ遊びに来ていた。 恵美子さんが「『絵画青春記』は読んだの? 面白いわよ」といっていたのを思い出す。 巌は「今も声を上げて泣いている父の姿、泣きながら二階に駆け上がった父を覚えている」と書いていた。「大杉は芸術家だった、ソシアリストではない、大杉は芸術家なのだ」と父・魯庵はいうのだった。 今年は関東大震災から100年ということで多くの本が書店に並んでいた。読みたかった『福田村事件 -関東大震災・知られざる悲劇』(辻野弥生 著 五月書房新社)は売り切れでまだ入手していない。 書店では『聞き書き・関東大震災』(森まゆみ 著 亜紀書房)と『関東大震災と流言』(前田恭二 編著 岩波ブックレット)を購入したのだが、なんとコロナを発症してしまって寝込んでしまった。残念ながらまだ読んでいない。 みなさん、コロナにはくれぐれもご注意を!
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『日本に住んでる世界のひと』
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2023-07-28T12:06:00+09:00
2023-07-28T12:06:19+09:00
2023-07-28T12:06:19+09:00
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本
第169回 隣の「世界のひと」のことを知るために 『日本に住んでる世界のひと』(金井真紀 文・絵 大和書房)は昨年の秋に 出ていたのは知っていたが、気になりつつも買っていなかった。以前、本のメ ルマガでも紹介した『パリのすてきなおじさん』(柏書房)の著者、金井真紀 さんの本だから面白いにちがいないと思っていたのに、そのまま忘れていた。 先日、小田原に行ったときに友人に「南十字」という書店に連れて行っても らった。昨年の秋にオープンしたばかりの小さな書店だ。それまで書店員の経 験がないという若いスタッフが運営している。新刊、ZINE、それから古書も置 いてあってカフェスペースもある。読書会やトークイベントも企画しているそ うだ。解放感があって、居心地のいい店だった。せっかく来たのだから、何か 一冊買おうと思ったとき、書棚に『日本に住んでる世界のひと』があって、そ ういえばまだ読んでいなかったことを思い出して、手にとった。 金井真紀さんは社会学者の高谷幸さんたちとともに「難民・移民フェス」を 主催している。「難民・移民フェス」というのは、食べ物やアクセサリーなど の物販、ワークショップを通じて難民・移民の人たちの背景を知ること、そし て応援をするチャリティーイベントだ。『ポリタスTV』というYouTubeで配信 している番組で金井さんがインタビューを受けていた。聞き手は和田静香さん だった。このフェスを主催するきっかけがこの本を書いたことで、もちろん 本の内容も紹介していた。 『日本に住んでる世界のひと』は、タイトル通りに日本で暮らしている外国人 18組20人にインタビューして、それぞれの人生を描いている。 難民、移民を中心にインタビューをしているわけではなくて、音楽を職業と するチェリストやキリスト教の布教のためとか、さまざまな理由で来日してい る「世界のひと」が登場する。国を挙げていくと、アイスランド、南アフリカ、 スペイン、バルバドス、メキシコ、中国、イタリア、ミャンマー、セネガル、 モルディブ、韓国、エストニア、フィリンピン、アルメニア、東ティモール、 北マケドニア、アメリカ、中国・内モンゴル自治区、コンゴ民主共和国…。ぼ くには世界地図を見なければ、いったいどこにあるのかわからない国もたくさ んある。ニュースで国の名前くらいは聞いたことはあるけれど、どんな人が暮 らしているかなんて、ほとんど知らない。 金井さんの人柄なんだろう。インタビューを受けた人たちは身構えることな く、日本を訪れるまでのこと、訪れたあとのことをくわしく語っている。 コンビニや飲食店に行くと、必ずといっていいほど外国人のスタッフがいる。 いったいどこの国の人なんだろう、とか、なんで日本に来たんだろうって知り たいけれど、なかなか聞けない。ぼくの友人にコンビニで買い物をするとき、 店員に出身国を聞いて、その国の言葉で「おはよう」「こんばんは」と尋ねる 男がいる。そして次の日から、その言葉であいさつをするのだ。こういうコミ ュニケーションって大事なんだろう。その話を聞いてうらやましくなって、自 分でもやってみたいと思うのだけどシャイなぼくにはなかなか真似ができない。 『日本に住んでる世界のひと』を読んで、周囲にいる外国人に興味を持つだけ でも大切なことだな、と思う。 日本で暮らしている外国人は2021年12月の「在留外国人統計」によると 276万人、この数字には帰化した人、難民申請中の人、なんらかの訳があって 非正規で滞在している人は含まれない。この数字を見ても、日本は日本人だけ のことを考えていてはいけない、ということがわかる。 最初に登場するのは、上野公園でチェロを弾いている北マケドニア出身の男 性でペレ・ヨヴァノフさん。北マケドニア? どこにあるんだっけ? 南にギ リシア、東にブルガリアに位置して面積は九州の約3分の2という小さな国だ った。 イタリアのボローニャに音楽の勉強のため留学中に日本人女性と結婚して来 日した。職業は大道芸人。街中でチェロを演奏して暮らしている。普段は素通 りしてしまうけれど、こんなすごいミュージシャンが大道芸人をしているのか。 北マケドニアでは18歳になると、4つある政党のどれかに所属しているという。 若い人たちはとても政治に関心があるらしい。ただそれは、社会のためでなく 自分が支持する政党が権力を持ったら、自分にもいい仕事が回ってくるからだ という。努力して知識、技術を身につけた人よりも政党の力にすがっている人 のほうがいい目が見られる、ということらしい。どこの国でも政治や権力には、 ため息をつきたくなることが多いみたいだ。 フィリピンから来た長谷川ロウェナという女性は、1986年に19歳で来日して 職をいくつも変えながら、稼いだお金をフィリピンの家族に送金している。 19歳の女性がどんな仕事が斡旋されるのかわからない状態で、ひとりで日本に 向かったのだという。知っている日本語は「サヨナラ」だけだった。 「お給料をもらったら、その日だけ好きなものを食べるの。焼肉とかね。あと はほとんど全部、フィリピンに送ります」という。「このお金で家族が暮らせ るんだと思うと最高なの」といっている。現在はラブホテルの清掃業をしてい るが、労働組合のリーダーとして50人以上のフィリピン人従業員とともに不 当な扱いをする経営者と闘っているそうだ。 「横浜中華街育ちの不良だった」という華僑の料理人からは横浜中華街の歴史 を学ぶ。黄成恵さんは中華料理店「揚子江」の料理人。お兄さんは金井さんの 中国語の先生だったそうだ。黄成恵さんは若いころ、かなりヤンチャだったら しく、ハマの不良の話はそのまま青春映画になりそうだった。 日本にやってきた理由は出稼ぎだったり、布教だったり、ビジネスだったり さまざまだ。インタビューを受けた「日本に住んでいる世界のひと」たちは、 特別なエリートではなくて普通の人たちだった。外国に来て生活していくのは、 生きるのはたいへんなことで、それぞれがたくましく、したたかに生き抜く知 恵を身につけていると感心する。このような感想を持つのは、読む前から予想 していたことだった。ただただたくましいなあ、すごいなあ、と思うだけでは すまないこともある。 日本で暮らす「外国のひと」には戦争、内戦の傷を負っている人がいかに多 いのか! ぼくはアルメニアで起きたジェノサイドのことを知らなかった。アルメニア は、西はトルコ、北はジョージア、東はアゼルバイジャンという位置にある世 界最初のキリスト教国だ。 インタビューを受けたのはアルメニアの大使だった。グラント・ポゴシャン 大使はアルメニアの歴史を語り始める。「ぼくたちは、皆、サバイバーの子ど もです」と大使から重たい言葉が放たれた。約100年前、オスマン帝国内にい た250万人のうち、150万人が殺されたジェノサイドがあったことが語られる。 「私たちの国では家族ごとにジェノサイドの物語があります」 たった100年前の話じゃないか! と驚いてウィキで調べた。現在もオスマ ン帝国の主な継承国であるトルコ共和国は国際的に非難されている。しかし、 トルコ政府は、その計画性や組織性を認めていないという。いまも続く問題な んだ。 自衛隊PKO派遣で問題になった東ティモールの話も平和な日本では考えられ ない。いまは広島に奥さんと住む男性マイア・レオネル・ダビッドさんから子 ども時代から「殺し合い」「死」が身近であったことが語られる。90年代の話 だ。ポルトガル領だった東ティモールでは、小学校でもインドネシア人とティ モール人の争いは絶えなかった。小学生の喧嘩といってもナイフのような凶器 が使われる。ある日、喧嘩の末、インドネシア人に死者が出てしまった。直接 手を下したのはレオネルさんではなかったが、警察に捕まったら殺されてしま うと山に逃げこんだ。レオネルさんは12歳で家出して山岳ゲリラに入ったのだ という。12歳の子どもがゲリラから銃の扱い方、人の刺し方を習い、一番大事 なことは「どんな拷問を受けても仲間の居場所を教えるな」と教えられた。ゲ リラのリーダーから家にもどれと説得されて帰ったものの、その後も毎日のよ うに銃声が響く地獄のような状態が続いたという。 1972年生まれのミャンマーから来た女性、キンサンサンアウンさんはミャン マーの貧困層の暮らしぶり、そして来日してからの低賃金労働の話をする。印 象的だったのは、ミャンマー軍事独裁政権は「考えさせない」教育を徹底して いたことだ。作文や感想文を書く機会は一切与えられなかったという。政府高 官の子弟は必ず海外に留学して学問を身につけて裕福な暮らしを享受する。格 差が埋まらないように貧乏人が人権意識や民主主義に目覚めないようにしたと いう。 コンゴ民主共和国からきたポンゴ・ミンガシャンガ・ジャックさんと金井さ んは2021年4月20日、入管法改悪反対を訴える永田町での座り込みで知り合っ た。 豊富な天然資源をめぐってコンゴの紛争は「アフリカの世界大戦」と呼ばれ ていて、1998年から2003年に紛争の犠牲になった人は540万人にのぼる。 ぼくにとってアフリカは遠かった。こんなひどい殺し合いがあっても、実感 がなかった。 コンゴの民主化運動に参加したジャックさんは軍隊に追われるようになる。 「集会やデモの最中に武装した男たちが襲撃してくる。仲間が突然、行方不明 になる。そういうことが数えきれないくらい起きた」とジャックさんはいう。 「日本では襲われたら警察に通報し、守ってもらうことができるでしょ。でも コンゴでは警察が襲ってくる」 ジャックさんが日本に来たのは2012年だった。その2年後、故郷のコンゴで は、父親が警察に惨殺される。さらに2年後、母親と3歳になる弟の息子が惨殺 される。どのような殺され方をしたのか、金井さんが見た写真のことを書いて あるのだが、とてもここに書く勇気がない。もしジャックさんが難民認定を受 けられず強制送還されたら、命の危険があるのは明らかだろう。ジャックさん は難民として認定されていない。 政府の入管法改正案は、6月9日の参議院本会議で可決され、成立した。この 法律が施行されれば「難民認定3回目以降の申請者は強制送還が可能」になる。 もういちど、いやなんども『日本に住んでる世界のひと』を読んで日本は日 本人だけの場所ではないことを考えたい。]]>
「本の読み方」と祖父のエッセイ
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2023-06-27T17:21:00+09:00
2023-06-27T17:27:29+09:00
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本
「草森紳一が内田魯庵のことを書いてるよ。ほんのちょっとだけど」と友人が教
えてくれた。さっそく『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』(草森紳一 著
河出書房新社)を探したがあいにく絶版になっていた。どうしても読みたくて古
書をネットでさがした。「ほんのちょっと」でも気になったからだ。
内田魯庵は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。明治を描いた小説やドラマ
にときどき登場する。ぼくの母方の曽祖父だ。魯庵のことを草森紳一がどんな
ふうに書いているのだろう、と興味があった。
以前、『内田魯庵山脈』(岩波現代文庫)を書いた山口昌男さんに会ったと
きだった。ぼくが魯庵の曾孫だと知ると「きみの家系は末代になるほど悲劇的
になるな」とちょっと意地悪そうに笑った。
悲劇的というのは、魯庵の息子、つまりぼくの祖父である画家の巌が病死、
そしてぼくの父が事故死(山口さんは「爆死」と表現した)、母が病死したこ
とをいったのだが、そうなるとぼくはどれほど悲劇的な死を迎えるんだろう?
なんて思ったものだ。
余計なことを書いた。
『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』は草森紳一が読書の歓びを書いたエ
ッセイ集だ。『随筆-本が崩れる』 (中公文庫) でもその何万冊に及ぶ蔵書が
話題になった、読書の達人が読書について書いているのだから、面白くないは
ずがない。絶版になっているのが残念だ。
「読書といえば、頭のみを使うと思っている人が多い。それは誤解で、手を使う
のである。読書とは手の運動である」
冒頭の章でこんなことを教えてもらえる。
「読書の歓びは、内容を追いかけることだけではない。ついほかのことを考えた
り、まどろんでしまったり、ただ本とともにあるこよなきひととき」。そんな時間も
読書の喜びだと教えてくれる。
カバー写真やとびらに使われている草森自身が撮影した読書にまつわるスナ
ップ写真が素晴らしい!
友人が教えてくれたのは「父の気膊(きはく)」という章だった。「書斎の中の人
間は、意外と、熱心に読書したりしていないのではないか。ボーっとしている
時間のほうが長いのではないか」という考察を書いている。
有島武郎の書斎のことを息子の有島行光が書いた文章を紹介している。有島
行光は、俳優の森雅之のことだ。 有島行光は書斎にいる有島武郎が本を読んでいたり原稿を書いている姿のこ
とを書いていない。書斎には入ってはいけない、と言われていて行光少年は父
の留守にこっそり入って秘密の匂いのする空間で遊ぶ。書斎には目に見えぬ父
の気膊がみなぎっていて長居は出来なかったと書いている。
ぼくの家には書斎などという高級な部屋はなかったけれど、父が仕事をして
いた洋間には独特な空気があった。
洋間にあった本棚には洋書や大人の本が並んでいた。決して洋間に入ること
は禁止されてはいなかったが、両親の留守を狙ってこっそり入るという行為に
わくわくしたものだ。エロチックな表紙の本を取り出してめくってみたり、棚に
隠してあったパチンコの景品だった森永ハイクラウンチョコレートを失敬したこ
ともある。子どもにとって書斎は秘密の遊び場だったんだな。
魯庵のことを書いたのは、その章の後半になってからだった。
草森紳一がもっとも共感したのが、内田巌が書いた父である内田魯庵の書斎
について書いた文章だった。
巌は、魯庵の書斎のことを、食事のときにしか下に降りてこない「二階のわづ
か十二畳の小さき室」と書いている。
生活に追われている父・魯庵の頭脳にふさわしく書庫はひっかきまわされ、
「その乱雑な本の堆積中から現実が抜き出されたり、放り出されたりするよう
に書物と呼ぶ知識の素材が生活資源の戦場をいつも荒々しく表出していた」。
ぼくが本に埋もれて暮らしているのは、血筋なのかもしれない。ぼくの場合
は知識の素材といえるかどうかわからない本が多いけれど。
ぼくの祖父・内田巌は洋画家で『歌声よ起これ(文化を守る人々)』や『風』が
代表作として紹介されている。
ぼくは内田魯庵にも内田巌にも会ったことがないから、ふたりとも歴史上の
人物という感覚でしかない。ただ魯庵の写真を見ると、鼻の形が似ているかな
あ、とは思う。
子どものころ、ぼくの家族は魯庵についてくわしく教えてくれることはなか
った。小さな子どもに教えるのが面倒臭かったのかもしれない。「万年筆」と
いう名前を考えたらしいとか、ドストエフスキーを翻訳した人だと話していた
のを覚えている。万年筆については諸説あるらしいが。
祖父・巌については、家族は「よっぱらいだった」という話しかしなかった。
よっぱらって茶の間で踊ったとか、酔い潰れて布団まで運ぶのがたいへんだっ
たとか。翌朝、祖父の面倒を見た小学生だった叔母の枕元に「昨夜はよっぱら
ってごめんなさい」と手紙が置かれていたそうだ。そのような酒にまつわる話
ばかりだったから、ぼくの頭には、よっぱらいの絵描きとしてインプットされ
ていた。
家に飾ってあった浴衣を着た巌の写真は、白髪の老人にしか見えなかったが、
まだ50歳くらいのときのものだろう。
酒が好きだったのは本当の話で、疎開先の岡山では酒を飲ませてもらっては
お礼にサラサラと絵を描いていたようだ。岡山に行ったとき、祖父が酔っ払っ
て描いたという絵をたくさん見せてもらった。
あとになって内田巌はただの「よっぱらい」ではなくて、正真正銘の画家で
あることを知った。東宝争議をテーマにした絵や、家族を描いた作品は情熱と
温かさを感じさせる。ぼくは最近、「岩」をテーマに描いた何枚かの作品に心
惹かれている。地味で、決して才気走ることなく、努力で自身の芸術を高めた
巌という人物がよく表れた作品だと感じている。
絵画だけではなく、内田巌はエッセイも多数書いている。『ミレーとコロー』
(岩波新書)、『人間画家』(宝雲舎)など10冊以上あるのだが、なかでも
『絵画青春記』(太和堂)が面白い。
「私は画家になりたいと思って画家になったわけではない」と書かれていて
画家になったのは自分の意志ではなくて、父・内田魯庵に薦められたからと書
いている。
受験に何度も失敗したのは、システマチックに試験勉強をする努力がなく、
頭脳も悪かったから、そして奮発心も競争心もない性質だった、なんて書いて
ある。なんだか、ぼくのことを書いているようだ。
「人は意志が弱いといったが意志が弱いのではなく意志がなかったのだ」なん
て書いてあるから、ぼくは思わず「そうなんだよ、おじいちゃん!」と叫びそう
になった。祖父が実に近く感じられるのだ。
絵を描きはじめたとき、友人に「君には絵の才能がない。文学をやるべきだ」
と意見されたり、美術学校時代に「あれは思想家で画家ではない」と妙なレッ
テルを貼られたりと常に自分は何であるのか、と問われ続けて生きてきたと書
いている。なんだか「同じ血が流れている」と感じる。ああ、祖父に、いちど
でも会って話を聞きたかったなあ。
もうずいぶん前のことになるが、従兄弟の結婚式があり大阪に行ったときの
ことだった。式場に向かう途中に古本屋があって時間つぶしに寄ったところ、
内田巌の本が9冊も置いてあった。どの本も200円程度の値段だったのでぜんぶ
を購入して紙袋に入れて、真夏の大阪を歩いた。式場に着いたときは汗まみれ
になっていて、親戚に「なにしに来たんや」と呆れられた。
いま、ぼくの手元にある『絵画青春記』は画家の井上洋介さんにいただいた
ものだ。井上さんが自ら装丁をしてくれた。本の背は井上さんの文字でタイトル
「絵画青春記 内田巌」が書かれている。世界で一冊しかない本だ。
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『ある行旅死亡人の物語』
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2023-05-23T12:46:00+09:00
2023-05-23T12:46:35+09:00
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本
----------------------------------------第167回 生きていた証をさがして 高齢者の仲間入りをして久しい。友人と会えばいつのまにか病気自慢になっているし、同級生たちの訃報がつぎつぎと届くようになってきた。先日、80歳を超えた叔母からは、孤独死した友人のようになりたくないからと、ときおり生きているかどうか確かめに電話をするようにと強くいわれた。 そんなときに書店で手にとったのは『ある行旅死亡人の物語』(武田淳志 伊藤亜衣 著 毎日新聞出版)だった。タイトルの「行旅死亡人」という聞きなれない言葉、そしてやわらかだが虚無的な装丁のイラストに惹かれた。どこかで見たようなイラストだな、と思ったら装画は台湾の漫画家・高研だった。 カバーのそでを見たら、「行旅死亡人」の説明があった。「病気や行き倒れ、自殺などで亡くなり、名前や住所など身元が判明せず、引き取り人不明の死者を表す法律用語」ということだった。 『ある行旅死亡人の物語』はもともと共同通信の記事を掲載している 47NEWSで話題になったネット記事を書籍化したものだそうだ。 話の発端は、喫茶店で共同通信社大阪社会部の武田淳志記者が記事のネタ探しをするところから始まる。喫茶店においてある新聞をすみからすみまで読んだり、インターネットでニュースを検索するが、ピンとくるニュースがない。 灰皿に吸い殻が山のように積もっていく。 「灰皿に吸い殻の山」! え、いつの時代の話なんだろう? と思った。読み返してみると、たしかに2021年の6月と書いてあるし、武田記者は1990年生まれとあるから、この文章を書いているとき、30歳を過ぎたばかりだ。いまどき喫茶店で煙草を吸いながら記事を書く記者がいるなんて。なんか昭和の匂いがしてくるなあ。好感度がアップした。 この本の著者である武田淳志、そして少し後に取材に加わる伊藤亜衣、ふたりとも30歳ちょっと過ぎた年齢という若い記者なのだが、その取材方法はまさに「足で稼ぐ」昔ながらの手法だった。時間と手間を厭わず、身銭を切って取材に飛び回る。インターネットで情報を集める時代でも、取材のやり方昔と変わらず、関係者をさがしだし、そして訪ねて直接話を聞いている。人とのつながりを大切にして、真摯に取材をするふたりのすがたを読んでいて、まだ日本も捨てたものじゃないなあ、とうれしかった。 さて本にもどろう。武田記者は「行旅死亡人データベース」というサイトで見つけたひとりの女性に興味をおぼえる。兵庫県尼崎市のとあるアパートで孤独死したその女性は現金で3400万円を残していた。 武田記者は、同僚の伊藤記者にも協力を求めて取材を進める。ただ仕事として成立していないのでまだ記事となる保証はない。だから仕事の合間をぬって時間のやりくりをしなくてはならないし、取材に行くのも自腹だった。 亡くなった女性は、推定年齢75歳、身長は133センチ。右手の指が全て欠損していた。年金手帳に記された名前は田中千津子だったが、本名であるかはわからない。 アパートは男性の名前で契約をしているが、40年近くも住んでいたというのに、その男性を見たことがある者はいないという。いったいその男はだれだったのだろう? 夫だったのか? 大家は、女性の右手の指がないことにも気づいていなかった。家賃を手渡すときも右手を隠していたらしい。 部屋に残っていたのは、関係のわからない人物が映った写真、数字のメモが入った星のマークのロケットペンダントなども謎めいている。つつましい暮らしを続けていたようなのに、なぜ大金を所持していたのか。右手の指の欠損は工場で働いていたときの事故によるものとわかったが、どういうわけか労災の請求も辞めてしまっていた。3400万円も持っていたのに、どうして小さな風呂もない部屋に住んでいたのだろうか? 深まる謎、次々に生まれる疑問。もしかしたらスパイ活動や、何かの事件に絡んでいるのではないか。 まるでミステリー小説のようになってきたが、これはノンフィクションなのだ。まさに「事実は小説より奇なり」。取材によって、少しずつ解けていく謎に読者は引き込まれていく。 武田、伊藤の両記者は、田中千津子の身元を調べ始める。たんたんと地味な取材を続けていく。 所持品の中にあった珍しい姓の印鑑に目をつけた。「沖宗」という広島に多い姓らしい。ふたりは広島に向かった。これがキーとなって、少しずつ手がかりを見つけていく。 テレビドラマではないから、すべてのなぞが解けるわけではない。というか、わからないことのほうが多いかもしれない。 なぞが解けて大団円というわけではないが、尼崎の古いアパートで孤独死という形で見つかった見知らぬ女性だったのが、地道な取材によって、おぼろげながらひとりの女性として、人間としての人生が浮かび上がってきた。もう「行旅死亡人」ではなくなったといえるだろう。 「一人の死者の人生を丁寧に追うというのは大切なこと」という社会部デスクの言葉が印象的だった。 どれだけ取材を尽くしても生前の姿を再現することは出来ない。証言者によって見えてくる顔はちがってくる。夏の逃げ水を追いかけるようなもので、姿は浮かんでも決して到達出来ない。取材記者の思いが伝わってくる。 ニュースで伝えられる死者はときに数字で表されるだけだったりする。名前が出ても、その人生を知ることはない。まして行旅死亡人の場合は、名前さえわからない。 武田、伊藤の両記者が追ったのは事件ではなくて、ひとりの「行旅死亡人」の人生だった。「行旅死亡人」に本当の名前をふたたび取り返す仕事だったといえるかもしれない。 あとがきを読むと、高齢者の孤独死や無縁死は年間3万人に上ると推定されるという。そして今後はさらに増加することはあっても減少することはないだろう、とも。 また行旅死亡人は年間600から700人もいるという。田中千津子さんもその中 のひとりだった。武田記者、伊藤記者のふたりがいなかったら、その人生はだれにも知られずに終わっただろう。 ベビーベッドの上におかれた犬のぬいぐるみが田中千津子さんの孤独を物語っているようで胸がつまる思いがした。]]>
[本]のメルマガ vol.858 転載
http://kyotakyota.exblog.jp/33064275/
2023-05-10T12:27:00+09:00
2023-05-10T12:27:10+09:00
2023-05-10T12:27:10+09:00
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本
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第166回 LGBTQ+の権利を自分の問題にするために
日本では、同性の結婚はまだ認められず、性的少数者に対する差別を禁止す
る法律もいっこうに成立する気配がない。性的少数者理解増進法案さえも自民
党保守派の根強い抵抗が続いているという。
LGBTQ+であることで差別を受けて自ら死に追い込まれるケースだってある
し、人間として当然の権利を持つことが出来ないことに憤りを覚える。
ただそんなことをいっている自分だってLGBTQ+について知識があるとはま
ったくいえないなあと、ずっと気になっていた本を読んだ。けっこう厚みのあ
る本だったため、ずっと積ん読になっていた。
その本が『愛と差別と友情とLGBTQ+』(北丸雄二 著 人々舎)だ。読み
ながら自分がLGBTQ+について、あまりにも知らないことが多すぎる!ことを
実感した。1ページ読むたびに「ああ、そうなんだ」とつぶやくほど。そして
自分の中にまだ同性愛を恐れる気持ち、偏見がどこかにあるのではないか、
かつて不用意な発言でだれかを傷つけていたのではないか、と自分自身に問い
かけていろいろなシーンを思い出していた。
まず最初にLGBTQ+という言葉を調べた。東京レインボープライドのサイト
に解説が出ていた。
LGBTQ+とは、Lesbian(レズビアン、女性同性愛者)、Gay(ゲイ、男性同
性愛者)、Bisexual(バイセクシュアル、両性愛者)、Transgender(トラン
スジェンダー、性自認が出生時に割り当てられた性別とは異なる人)、Queer
やQuestioning(クイアやクエスチョニング)の頭文字をとった言葉で、性的
マイノリティ(性的少数者)を表す総称。Qを表す「クイア」は、もともと
「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉で、同性愛者への侮蔑
語だったが、現代では、規範的な性のあり方以外を包括する言葉としても使わ
れている。「クエスチョニング」は、自らの性のあり方について、特定の枠に
属さない人、わからない人等を表す言葉。「+」は、セクシュアルマイノリティ
が広がるにつれて分類できない性別を表している。
実をいうと、このような基本的なことも知らなかった。
『愛と差別と友情とLGBTQ+』は、ジャーナリストとして25年間のアメリカで
活動してきた北丸雄二さんが肌で感じたLGBTQ+の歴史、現在を伝えている。
北丸雄二さんは毎日新聞をスタートに、東京新聞(中日新聞社)社会部を経て
1993年よりニューヨーク支局長を勤めて、96年夏に退社して独立後、ニューヨ
ーク在住のまま執筆活動を続け、現在は帰国してジャーナリスト、コラムニス
トとして活動している。
けっして知識だけを伝えて啓蒙する本ではない。ゲイである北丸さん自身の
経験をもとにした当事者としての熱い思いが伝わってくる。
北丸さんがこの本を書こうと思ったのは、杉田水脈の生産性発言に対して
LGBTQ+を擁護する立場から「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだか
ら」というテレビのコメンテーターの言葉を聞いたときに感じた違和感からだ
ったという。本当に「もうそういう時代」じゃないの? 「そういう時代」は
もう、片づけられたの? という疑問からだった。
北丸さんはぼくよりちょっとだけ年上で、同世代といっていいだろう。だか
ら北丸さんが書いている、初めて見たレッドツェッペリンのボーカリスト、ロ
バート・プラントの容貌の美しさに感動した記憶は、ぼくにも同じような感覚
があったことを覚えている。ぼくの感動は多分セクシャルなものではなかった
と思うけれど、「美しい!」と感じたことはよく覚えている。
ビートルズやレッド・ツェッペリンなどから、話は本題に移っていって2018
年に公開された映画『ボヘミアン・ラプソディ』のクィーンがこの本の導入部
になっている。
NHKのニュースでこの作品を「英国のロックグループ『クィーン』が世界的
なバンドになるまでを描いた作品」と紹介した。この映画の本題であるメイン・
ヴォーカルのフレディ・マーキュリーがゲイであり、HIVに感染したことには
触れていなかった。この作品が高い評価を受けたのは、当時「死病」とされて
いたエイズに感染したフレディをバンド・メンバーたちが支えた友情が描かれ
ていたからだったのは言うまでもない。
北丸さんによると、ゲイとかエイズの話を面倒くさいと感じるのは日本社会
だけではなく、欧米でも五十歩百歩だそうだ。ゲイやエイズを世間は「面倒く
さい」とするだろうという推定反応のため、マーケティングのリスクとして映
画などの宣伝では避けられていたという。日本では映画だけでなく翻訳本の著
者紹介に「ゲイ」であることを隠すように出版社からいわれた話もあるという。
それが日本の現状なのだ。いまだに「そういう時代」だ。
まえがきの部分だけでも、なるほど、となんどもうなずきながら読み進める。
本の前半はアメリカにおけるLGBTQ+の歴史だ。
北丸さんの文章は「語る」という言葉がぴたりとくるような気がする。読者に
やさしく語りかけるような文章だ。400ページ以上もある本なのだが、読みづ
らいと思ったことがいちどもなかった。ただ、1ページの中に「これは大事な
ポイント」と思うことがたくさんあって付箋を貼っていくと結局全ページに貼
ることになるのでやめてしまった。やさしい言葉で語ってはいるけれど内容は
重たいし、きちんと理解するには何度も読み直さなければいけないみたいだ。
アメリカと日本を行き来する北丸さんだから、LGBTQ+についてアメリカと日
本の向き合い方の違いがわかったのだろう。85年にアメリカの恋人とさえ呼ば
れたロック・ハドソンがエイズで死んだことで、「ゲイのこと」「エイズのこ
と」を多くのアメリカ人が初めて他人事から「自分に関係すること」にしたの
だという。北丸さんは、LGBTQ+の権利をめぐる戦いの歴史を黒人解放運動や女
権運動などと例を挙げながら語る。
そして日本の閉じた文化についても語る。「日本で流通している日本語だけ
の情報で満ち足りて、そこから出ることも、その外に世界が存在することも考
えていない。日本の世間は日本語によって護られているつもりで、その実、そ
の日本語によって世界から見事に疎外されている」と。
北丸さんが書いたコラムを読んだことがある。そこで北丸さんはLGBTQ+の訳
語が「性的少数者」となっていることについて書いている。「性的」と付いて
いることで「性行為」と安易に結び付けられてしまう。本来なら「性別」「ジ
ェンダー」「恋愛」などを含む人間の生き方にとって大切な言葉なのに、
「セックス=性交」という意味に引っ張られてしまう。性的少数者と聞くと
「一般的ではないセックスをしている人たち」と受け取られる。新聞のコラム
にはたしか「セックスモンスター」「変態」ととらえられてしまうとも書いて
いた。もちろんLGBTQ+と愛と性は切り離すことはできない。それは異性愛者
も同じはずだ。
ブロードウェイのミュージカル『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』、
戯曲『ノーマル・ハート』など多くのミュージカルや戯曲上演台本翻訳を手が
けている北丸さんは、ニューヨーク在住中にエイズによって打撃を受けるブロ
ードウェイを目の当たりにしている。そして、性的少数者たちの命がけの言葉
の戦いを見てきた。
日本で北丸さんが台本を手がけた『アルターボーイズ』の上演があったとき、
ひとりの俳優がゲイの役について嫌悪感をもらしたことがあった。北丸さんは
その役者に手紙を書く。その手紙の中でマット・デイモンやパトリック
・スチュワートのゲイに対する姿勢を伝えた。その手紙を受け取った翌日から、
その俳優の演技がまるで別人のように感動的に変わったというエピソードだっ
た。北丸さんはいう。日本語の思考回路に、ほんのちょっと別のところへと通
じる回路を添えてやれば、彼らだっていろんなところに行けるのだと。
この本をたくさんの人が読むことで新しい思考回路が生まれて、LGBTQ+へ
の偏見がなくなっていくことを心から思う。
◎吉上恭太
文筆業。エッセイ集『ときには積ん読の日々』はトマソン社では品切れ中。
kyotayoshigami@gmail.comにお問い合わせください。
翻訳絵本『あめのひ』『かぜのひ』は徳間書店から、
『ようこそ! ここはみんなのがっこうだよ』はすずき出版から出ています。
セカンドアルバム「ある日の続き」、こちらで試聴出来ます。
https://soundcloud.com/kyotayoshigami2017
タワーレコード、アマゾンでも入手出来ると思いますが、
古書ほうろう(https://koshohoro.stores.jp/)、
珈琲マインド(https://coffeemind.base.shop/)で通販しています。
よろしくお願いします!
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